小浜宿と摂津国名所大絵図

先日、宝塚市立小浜宿資料館に行ってきました。小浜の地理がなかなか面白かったのでごく簡単にまとめてみました。

宝塚市立小浜資料館を外から撮った写真。右手に蔵のような建物がある。

宝塚市立小浜資料館

戦国時代の小浜

小浜は真宗本願寺派のお寺、毫攝寺(ごうしょうじ)の寺内町として開かれたようです。毫攝寺はもともと京都にあったのですが戦国時代にこの地へ移されました。当時の本願寺武装勢力として戦国大名に対抗していたわけですが、そのためにこの辺りの地形をうまく利用していたのですね。小浜は北・西・南は大堀川、東は溜池と土塁に囲まれた天然の城塞なのです。

小浜のジオラマの展示。

小浜のジオラマ

この写真は小浜のジオラマを北側から撮ったものです。手前(北側)は分かりにくいですが、三方を川に囲まれ、東側に溜池があるのが分かります。

江戸時代の小浜

小浜地区と街道筋が描かれた地図の写真。

小浜地区と街道筋

江戸時代に小浜は宿場町として栄えました。この地は有馬街道、西宮街道、京伏見街道が交わる交通の要衝だったのですね。しかも少し北には中山寺を含む西国三十三所の巡礼街道が通っています。小浜は西国各藩の参勤交代の通り道でもあったので、大いに賑わったそうです。

小浜が大きな宿場町であったことは摂津国名所大絵図からも見てとれます。

摂津国の名所が描かれた古地図。

摂津国名所大絵図

摂津国名所大絵図は神戸大学附属図書館デジタルアーカイブで閲覧できます。

(URL: http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/kobemap/htmls/lime/ezu_01.html

摂津国名所大絵図

摂津国名所大絵図は古い地図ですが、阪神間の人には馴染みのある地名がたくさんあるので分かりやすくて面白いと思います。ど真ん中にある伊丹(文字が南から北の方向に書いてあります)が目印になります。小浜(小濱町と書いてあります)は伊丹の北西にあります(北が左なので右90度回転した方が見やすいです)。また近くの大きな町としては池田があります。

伊丹のそばに荒木摂津守古城があります。これはJR伊丹駅のそばにある有岡城跡のことですね。荒木摂津守古城は神戸にもあります。絵図では生田川の河口を目印にして、少し西を探せば見つかります。これは花隈城のことですね。

生田川を辿っていくと布引の滝があります。その西に松永久秀古城(城山にある瀧山城跡のこと?)を挟んで再度山大龍寺があります。布引の滝の北東に摩耶山天上寺があり、その東に天狗岩があります。摩耶山、再度山周辺のハイカーにはお馴染みですね。

絵図に大きく武庫郡と書いてあるところの西側に六甲山、武庫山、石宝殿があります。六甲山と武庫山はこの絵図では違う山なのですね。そしてどちらも、石宝殿との位置関係が正しいとすると、六甲最高峰とは違うことになります。もっとも、昔の絵図なのでどれほど忠実な地図なのか分かりませんが。

生田川の隣の大石川(都賀川)河口のすぐ西に求女塚、大石川と石屋川の間に求塚(と書いてありますが実際は処女塚)、石屋川の隣の住吉川河口のすぐ西に求塚があります。処女塚は前回の記事で少し触れた古墳で、両隣の求女塚古墳とともに菟原処女(うないおとめ)の伝説が残っています。

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菟原処女は芦屋にいた女性で、その女性を巡って二人の男が争ったという伝説です。その女性は争いに心を痛めて自ら命を絶ち、二人の男もその後を追ったそうです。処女塚古墳が菟原処女の墓で、その両隣の求女塚古墳が二人の男の墓と言われています。2つの求女塚古墳は公園になっています。

ところで、菟原処女の菟原は「うない」と読みますが、絵図に大きく書いてある菟原郡の菟原は「うはら」と読みます。菟原郡は今はもう無いのですが、JR住吉駅のそばにある「うはらホール」や、「恋野温泉うはらの湯」などに名前が残っています。菟原郡は芦屋も含む、まあまあ広い地域だったようですね。芦屋にもいろいろ面白いものがありますが、記事がダラダラ長くなってきたのでこの辺りで終わりにしようと思います。